市内観光の続きです 次に向かったのは「デカブリスト広場」
元々は広場の西側に建つ元老院(黄色の建物)に因んで「元老院広場」と呼ばれていましたが
1825年12月14日この場所で始まったデカブリストの乱100周年の1925年に改名されました
2008年には元の名前の「元老院広場」に戻ったのですが「デカブリスト広場」と呼ぶ人が多いそうです
デカブリストの乱について詳しい事はこちらを御覧ください
デカブリスト広場にある「青銅の騎士」像
ロシア皇帝ピョートル大帝の像です
騎馬像の建設はエカチェリーナ2世の命令により1770年に開始されました
おもにフランスの彫刻家Étienne Maurice Falconetによって作られ1782年に完成しました
アレクサンドル・プーシキンがこの像を題材にした叙情詩「青銅の騎士」を
1883年に発表し有名になったことからこの像自体も「青銅の騎士」と呼ばれるようになりました
台座の右側にはラテン語で「PETRO primo CATHARINA secunda MDCCLXXXII」
左側にはロシア語で「ПЕТРУ перьвому ЕКАТЕРИНА вторая лѣта 1782」
「ピョートル1世ヘ エカチェリーナ2世 1782年」と彫ってあります
デカブリスト広場から見た聖イサアク大聖堂
1818年から1858年まで40年の歳月をかけて建てられたロシア正教会の大聖堂です
並木道を抜けて大聖堂の近くまで行ってみました
フランス人建築家Auguste de Montferrandの設計で
外観はロシア・ビザンチン様式、ファサードは新古典主義様式で建てられました
イサアク広場から見た大聖堂 ドームの全高は101.5m 花崗岩の列柱は112本あるそうです
イサアク広場にあるニコライ1世の騎馬像
台座にある4人の女性像は皇帝の奥さんと3人の娘だそうです
1839年から1844年にかけて新古典主義様式で建てられたマリインスキー宮殿
現在は市議会の建物
1911年から1912年にかけて建てられたアストリアホテル(5つ星)
宮殿川岸通りを通って次の目的地へ向かいました 対岸に見えたロストラの燈台柱
ペトロパヴロフスク要塞内にあるピョートル大帝以後の歴代の皇帝が埋葬されている
ペトロパヴロフスク聖堂の高さ122.5mの黄金の尖塔もよく見えました
トロイツキー橋
建都100年にフランスからプレゼントされたものでエッフェルの設計だそうです
Храм Спаса на Крови(血の上の救世主教会) 公式名はハリストス復活大聖堂
名称は1881年3月13日の皇帝アレクサンドル2世暗殺によるもので暗殺場所に教会は建てられています
工事は1883年に着工され1907年に完成しました
内部は308点のモザイク画で飾られています
モザイク画は厳密な様式にのっとり聖書の場面を表現しているのだそうです
青い聖衣をつけているのがハリストス
下絵は25人を超える画家のグループが制作したそうです
天井のドームに描かれた若きハリストスの姿
若い頃の姿を描いた物は珍しいそうです
中央ドームにあるハリストスのモザイク画
教会のミニチュアモデル
皇帝が暗殺された時に血に染まった欄干と舗道の一部が保存されていました
イコノスタシス
扉がないので主祭壇のモザイク画も見えました
扉はこちらと
こちらのどちらにするかまだ決まってないそうです
ロシア革命後、教会内部も損害を被って1930年代に閉鎖されました
第二次世界大戦中には野菜倉庫として使われていました
戦後は近くのオペラ劇場の倉庫としても使われたそうです
1970年管理権がイサアク聖堂に譲渡され聖堂の収入は血の上の救世主教会の復旧へ集約され
1997年8月、血の上の救世主教会は60年ぶりに一般公開されたのだそうです
教会の横にあるクリポエードフ運河沿いには露天が並んでいます
こちらは南側(入ったのは北側)
外壁はレンガ、モザイク画、タイル、大理石で覆われています
東側
9つあるドームは金色やエナメルによる塗装が施されています
昼食は和食レストランGINNO TAKIでいただきました
内部はこんな感じです
海鮮サラダ(上) 巻物、にぎり盛り合わせ(下)
お好み焼き(上) デザートはいちごのパルフェ(下)