今年一番の暑さ
日本の方が暑いです
猛暑のブルガリアとルーマニアから帰ってきました
40度前後の気温でしたが、湿気がないので日陰に入れば涼しかったです
日本の方がジメジメしていて暑いです
首都ソフィアのシンボルになっている教会や
ブルガリアで一番有名な世界遺産の修道院に行って来ました
お隣の国ルーマニアではトランシルバニア地方にあるルーマニア第二の都市や
首都ブカレストにある世界第二位の巨大な建物などを見てきました
旅の詳細なご報告は昨年7月のロシア、今年3月のメキシコの旅行記が終わってからになります
できるだけ早くご紹介できるように頑張ります・・・
おまけ
旅行の帰りに東京スカイツリーに行って来ました
曇の日だったので、遠くまで見えるかちょっと心配でしたが綺麗に見えました
15時頃展望回廊に登って19時頃までスカイツリー内にいました
昼よりも夜の方が遠くまでハッキリ見えるような気がしました
ノブゴロドのクレムリン
ノブゴロドのクレムリンは現存するロシア最古のクレムリンで世界遺産にも登録されています
1044年、ヤロスラフ賢公の命で木造の城壁の建設が始まったそうです
1302年には石造りに1484年から1490年にレンガ造りのものと置き換えられたそうです
現在のクレムリンは主に15世紀のもので16世紀と17世紀にもいくつかの修正が行われたそうです
城壁の高さは約11m、厚さ3.3m、長さ1385m、クレムリンの面積は12.1ヘクタールだそうです
上の地図の上部にある門からクレムリンに入りました
859はノブゴロドが始まったとされる年号です
門を入ってすぐ右手にあるのが聖ソフィア大聖堂の鐘楼
階段のある建物は19世紀に警備員が住んでいた家だそうです
最初の鐘楼は1439年にノブゴロドの大司教の命令で建てられたそうです
現在の建物は19世紀に修復されたものだそうです
鐘楼の前には16世紀と17世紀に使用されていた鐘が並べられていました
1045年から1050年にかけて建てられた聖ソフィア大聖堂
ロシアに現存する最古の教会だと言われています
聖堂に向かって歩いていると
道の上にこんな格好で寝ている猫ちゃんがいました
近寄ってもこの格好のまましばらく撮影会に付き合ってくれました
伝説によると聖ソフィア大聖堂の十字架の上には石化した鳩がいるのだとか・・・
1570年にイヴァン雷帝の大虐殺を目撃して恐怖で石化してしまったのだそうです
第二次大戦中ドイツ軍が大聖堂の宝物を奪った際に鳩のついた十字架も奪われたそうです
スペインの博物館にあったその十字架は2002年にノブゴロドに返還されたそうです
肉眼ではわからないので望遠でいろんな角度から写してみました
現在いるのは鉛で出来た鳩でした
大聖堂の中は写真撮影禁止なのでガイドブックから内部の写真をおかりしました
大聖堂で有名なのがこの聖母マリアのイコンです
1170年ノブゴロドがスーズダリに包囲された時、このイコンを城壁に掲げ加護を願ったそうです
その時、敵の放った矢の一つが聖母マリアの眼に突き刺さりました
聖母マリアは涙を流し、その涙を見た敵兵は恐怖で眼が見えなくなり撤退したのだそうです
イコンの眼の少し上に矢が刺さった跡が残っていました
大聖堂の西側にあるマルデブルクの門(ロマネスク様式)
1187年、スウェーデンのシグチューナ要塞から運ばれてきたと言われています
右側の一番上の部分
左側の一番上の部分
右側の真ん中部分
左側の真ん中部分
ドアハンドルの動物がくわえているのは罪人の頭だそうです
右側の一番下の部分 ケンタウルスは人間の二元性をあらわしているのだそうです
左側の一番下の部分 アダムとイブの姿も
門の上にあるレリーフ
17世紀に造られたベルタワーと15世紀に造られた商工会議所(黄色の建物)
地図の真ん中付近から見た聖ソフィア大聖堂
1862年に青銅でつくられたロシア建国1000年記念碑 高さ15.7m
盾を持っている人が建国の父リューリック(在位862~879)
十字架を掲げているのがキエフ大公ウラジミール(在位970~988)ロシアにキリスト教を導入した人
左のタタール人を踏みつけているのがドミトリー・ドンスコイ(14世紀)
天使に導かれるピョートル大帝
建国、キリスト教受容、クリコヴォの勝利、中央集権化、ロマノフ王朝の始まり、
ピョートル改革の6テーマを代表する像が並んでいました
下の層は啓蒙(十字架を持っている大公ウラジミールから右端まで31体
政府の人々(26体) レリーフの中のただ一人の女性エカチェリーナ2世から左側
軍人と英雄(36体)
作家とアーティスト(16体)の4つのセクションに分かれています
この記念碑も第二次大戦中に解体されドイツに輸送する準備がされたそうです
しかし、達成されることなく復元された記念碑は1944年11月再び公開されたそうです
聖ソフィア大聖堂とミレニアム記念碑は5ルーブルに印刷されています
地図の下にある反対側の門から外に出ました 円筒形の塔はメトロポリタンタワー
手前Златоустовская башня 奥Покровская башня 城壁は歩くことも出来るみたいです
Юрьев монастырь&Витославлицы
クレムリンの観光を終えて、次の場所へ移動しました
写真はЦерковь Власия на Волосовой улице
最初の建物は1111年に建てられ、何度か破壊と修復を繰り返されました
現在の建物は1954年から1959年にかけて復元されたものです
ノブゴロドの街の郊外にあるЮрьев монастырь(聖ユーリエフ修道院)
ユーリエフ修道院はロシア最古の修道院のひとつで、
1030年エストニアでの戦勝を記念してヤロスラブリ1世が創設したそうです
かつてヴォルホフ川を南下してきた船は修道院に聳える鐘楼の金の屋根を目印にしていたそうです
Крестовоздвиженский собор(聖十字架大聖堂)1830年建造
[править]Спасский собор(救世主大聖堂)1763年建造
鐘楼から続く道の両脇にはバラが植えられていました
キリストがゴルゴダの丘へ向かう為に歩いた茨の道をあらわしているのだそうです
螺旋階段が続く4階建ての鐘楼の高さは52m 1838年から1841年にかけて建てられたそうです
Георгиевский собор(聖ゲオルギー聖堂)1119年から1130年にかけて建てられたそうです
内部は壁一面壁画で覆われていました(中は撮影禁止なのでガイドブックからお借りしました)
12世紀に描かれていた壁画はほぼ破壊され現在のものは20世紀に描かれたものだそうです
次に向かったのはВитославлицы(木造建築博物館)
50ヘクタールの敷地内にノブゴロド地方の12世紀から18世紀の建物が移築、保存されています
入り口を入るとこんな森が続いていました
18世紀の教会(地図4)
19世紀の農家の中に入りました(地図1)
1階は家畜小屋と車庫になっていました
階段を上がった突き当りには干し草が保存してありました
2階にある住居部分
台所
敷地内には当時の衣装を着た人達がいました(手前の建物は地図3、奥は地図2)
当時のブランコで遊んでいる子供もいました
左の建物では木彫りのお人形や白樺で作ったアクセサリーの販売もしていました
上の写真で人が覗き込んでいたものは蓋付きの井戸でした
1539年に建てられた聖母マリアの生誕教会(地図7)
生誕教会の裏にはこんな書割りもありました
1672年から1676年にかけて建てられたKletskayaトリニティ教会(地図8)
1757年に建てられた聖ニコラス教会(地図9)
聖ユーリエフ修道院の近くにも20世紀の水車が展示されていました
ノブゴロド州で一番大きな湖イリメニ湖
イリメニとはフィンランド語でペンキを作る泉と言う意味だそうです
その水の青さから湖の色は空の色だと言われているそうです
湖には52もの川が流れ込んでいますが、出ていくのはヴォルホフ川だけだそうです
ホワイトタワー
造られた時には白い漆喰が塗ってあって真っ白だったそうです
アレクサンドル・ネフスキー橋から見たクレムリン
お昼は軍の敷地内にあるGOSPODA OFITSERY(将軍様たち)と言うレストランでいただきました
レストランの中はこんな感じです お客さんの中には軍服を着ている人もいました
サラダ(ビーツ、キュウリ、酢漬けキャベツ)
メインは豚肉のシシャリク、バターライス添え デザートはブリヌイ(ロシア風クレープ)
レストランの外にはこんなものもありました
やっとサンクトペテルブルクに着きました
白い教会群に別れを告げて行きと同じ道を通ってサンクトペテルブルクへ向かいました
郊外の道を走っていると
道路脇の木にコウノトリの巣を見つけました(かなりボケボケですが^^;)
街と街の間にはこんな草原が続いていました
ノブゴロドから北へ80km、1時間くらいのЧýдовоという街で休憩しました
行きに寄ったお店よりもこちらの方が食べ物の種類が多かったです
その後もこんな草原を進みました
街中に入るとピンクの花畑がずっと続いていました
途中工事中の場所もあり、1時間半くらいでサンクトペテルブルクの郊外に入りました
上にある線路沿いにはこんな小屋がずっと並んでいました 分譲の車庫だということでした
アブヴォードヌィ運河
昔はこの運河がサンクトペテルブルクの街と外との境界線になっていたのだそうです
Krestovozdvizwenskaya教会(リゴフスキー通り沿い)
道路沿いには18世紀から19世紀にかけて建てられた建物がありました
1951年にネオ・ルネッサンス様式で建てられたモスコーフスキー駅
モスクワ方面の列車が発着することでこの名前がつけられたそうです
ロシアの駅は目的地が駅名になっているそうです
駅前にある蜂起広場(Пло́щадь Восста́ния)
中央にあるのは1985年の勝利記念日(5月9日)に建てられた「英雄都市へ贈るオベリスク」
後ろにある十月革命ホテルの屋上にある看板には「英雄都市レニングラード」と書かれているそうです
リコフスキー通り
こちらは地下鉄駅 名前は広場と同じプローシャチ・ヴォスターニヤ
サンクトペテルブルクのメインストリートネフスキー大通りを通って
サンクトペテルブルクの宿泊ホテルノボテルサンクトペテルブルクセンター
ノブゴロドを出てから3時間くらいで到着しました
ロビーです
お部屋はこんな感じです
夕食はホテルのレストランでいただきました スープはボルシチ
メインはビーフストロガノフ デザートはチョコレートケーキ
朝のお散歩 ネフスキー大通り編
朝6時半頃、サンクトペテルブルクのメインストリートであるネフスキー大通りへお散歩に出かけました
写真はホテルのあるマヤコフスキー通り
ネフスキー大通りはピョートル大帝によってノブゴロドとモスクワへの街道として建設が計画されました
現在の通りは旧海軍省からモスクワ駅のある蜂起広場を経てアレクサンドル・ネフスキー修道院へと至っています
写真はホテルのある通りからネフスキー大通りへ出た所にある建物№65ハウスG.G.Blokka
1902年から1904年にかけて建てられたものだそうです
大通りは東西に延び、通りの北側はいつも影になるので日陰側と呼ばれ建物には奇数番号がついています
南側はいつも日が当たるので日当たり側と呼ばれ建物には偶数番号がついています
№63の建物はハウスアレクサンダー 1878年に建てられたものだそうです
歩道の幅も広くて歩きやすかったです
№65の建物は創業1861年のネフスキー・パレスホテル
通ってきた道を振り向いて見たら遠くに蜂起広場のオベリスクが見えました
リチェーイヌェ大通りを渡って進みます
左の建物は№49ラディソンBluロイヤルホテル(創業1912年)
№45ロストツェフの家1858年に建てられたもので1階には2000年からマクドナルドが入居しています
Дворец Белосельских-Белозерских(Beloselsky-Belozersky宮殿)
19世紀に建てられたネオバロック様式の宮殿
宮殿の1階部分の飾り
フォンタンカ運河にかかるアニチコフ橋を渡ります
最初のアニチコフ橋は1716年に木造で造られました
1785年には砲塔を持つ石造りになり、現在の馬の彫刻付きの橋は1841年に造られたそうです
PKクロット作「馬の調教師」(橋の北西側にある彫刻)
橋の南西側にある彫刻
橋の南東側にある彫刻
欄干には人魚やタツノオトシゴのレリーフがありました
№56 1903年にエリセーエフ商店として建てられました
モデルン建築(ロシアのアールヌーボー)の代表作の一つだそうです
ネフスキー大通り側
ステンドグラス
25分くらい歩いてネフスキー大通りの中心部に着きました このあたりで戻ることにしました
真ん中に見える金色の塔が旧海軍省 左の黄色い建物は№35ガスチーニィ・ドゥヴォール
時計台のある建物は№33市議会(1847年から1852年にかけて建てられたもの)
オストロフスキー広場
高さ15m、重さ30トンのエカテリーナ2世の像が立っています
後ろの建物はアレキサンドリンスキー劇場(1832年造)建築家カルロ・ロッシの設計
オルロフスキー広場前から見た日当たり側の建物
1896年に建てられた№62の建物 左端のオレンジのタンク車は散水車
№64の建物(1882年造)
№66の建物(商人Sharovの家)
№66の建物のレリーフ
フォンタンカ運河の南側 右側の建物はアニチコフ宮殿(1754年造)
№68の建物は1941年のナチスの爆撃で破壊され1948年に再建されましたが
2011年この場所にホテルと地下駐車場をつくるためにその建物も壊されたそうです
№78の建物は1870年にネオ・バロック様式で建てられたものだそうです
№86 俳優の家
ネフスキー大通り
おまけ
ホテルの銀行にあったロシア文字とローマ字の対照表
サンクトペテルブルク市内観光
9時半頃ホテルを出発してサンクトペテルブルクの市内観光へ出かけました
ネフスキー大通りの東の起点、蜂起広場から出発です
サンクトペテルブルクはピョートル大帝の命により1703年5月16日に建設が始まりました
都市の名前は「聖ペテロの街」を意味し
ピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名に因んでつけたものだそうです
サンクトペテルブルクは1712年から1918年まではロシア帝国の首都でした
ネフスキー大通りの道幅は一番広い所で60m、一番狭い所で24mだそうです
写真は№77 ハウス・マリツェフ(1874年造)
№59 ハウスMGO(1873年~1874年造)
№49 ラディソンホテルのレリーフ
歩いて下から見たのとバスの中から見たのとでは雰囲気が違って見えました
フォンタンカ運河を渡ります
№39アニチコフ宮殿(バロック様式)
エリザヴェータ女帝が恋人のラズモフスキー伯爵に贈った宮殿 現在は青少年会館
№37 国立図書館 エカテリーナ2世の命によって建てられたロシア初の公共図書館
№35 ガスチーニィ・ドゥヴォール
1785年に市場としてオープンして以来220年以上の歴史を持つショッピングセンター
ヨーロッパで一番古いデパートだそうです
№28 シンガー社(現在は本屋) 1904年に建てられたモデルン建築の建物
カザン聖堂(ロシア正教会の大聖堂)
1801年着工、1811年に完成、ローマのサン・ピエトロ大聖堂を模して設計されたのだそうです
№17 ストロガノフ宮殿(現在はロシア美術館の分館)
1753年から1756年にかけて建てられたロシア・バロック様式の建物
ロシア料理ビーフ・ストロガノフの名前にもなったストロガノフ公爵の宮殿でした
№15 チチェリーンハウス(1768年造)
一時冬の宮殿として使用されていたことがあるそうです
№5 ハウスL.ウェーバー(1802年造)
宮殿広場
ネヴァ川 長さ74km 川幅の一番広い所は1km 平均の川幅は400~600m
宮殿橋を渡ってサンクトペテルブルクで最大の島ワシーリエフスキー島へ渡ります
サンクトペテルブルクには322の橋があり、21は跳ね橋だそうです
宮殿橋も跳ね橋の一つで写真に写っているような大客船を通すために
深夜2時から5時までは橋が開くために通行できないそうです
因みにこの日サンクトペテルブルクに寄港していた船は13隻、1万4千人の乗客が滞在中でした
ストレルカ(矢印)と言われる岬に着きました
ロストラの燈台柱 柱の高さ32m
ネヴァ川の航路の安全の為に1810年に設置された燈台
ロストラとは「船首」を意味し、古代ローマ時代に敵軍の船首を切り取り
柱の飾りとして勝利の記念にしたという習慣から由来してつくられたのだそうです
柱は2本あり、片方は女性の像2体、もう片方は男性の像2体が飾られていました
像はヴォルガ川、ドニエプル川、ネヴァ川、ヴォルホフ川を表しているそうです
ストレルカから見たペトロパヴロフスク要塞
サンクトペテルブルクの街はこの要塞が建てられたことから始まったのだそうです
当初はスウェーデンから奪った土地を防衛するために築かれましたが、
スウェーデンの脅威が低下した19世紀には政治犯収容所としても利用されたのだそうです
ドストエフスキーやレーニンも収容されたのだそうです
対岸のエルミタージュ美術館もよく見えました
遠くに旧海軍省やイサーク大聖堂も見えました
ストレルカの前にある旧証券取引所(現在は中央海軍博物館)
1742年にバロック様式で建てられた参議会(サンクトペテルブルク大学の前身)
サンクトペテルブルク大学の卒業生にはレーニン、プーチン大統領、メドヴェージェフ元大統領がいます
大学川岸通りから見た旧海軍省
大学川岸通りから見たイサーク大聖堂
宮殿橋を渡って海軍省川岸通りへ向かいます
バロック様式のクンストカメラ
1727年ピョートル大帝によって創設された博物館でロシアで一番古い博物館だそうです
海軍省川岸通りから見た宮殿橋
ロストフの燈台柱
今月のカレンダー
今月のミカチさんのカレンダーはアルザス地方です
Храм Спаса на Крови
市内観光の続きです 次に向かったのは「デカブリスト広場」
元々は広場の西側に建つ元老院(黄色の建物)に因んで「元老院広場」と呼ばれていましたが
1825年12月14日この場所で始まったデカブリストの乱100周年の1925年に改名されました
2008年には元の名前の「元老院広場」に戻ったのですが「デカブリスト広場」と呼ぶ人が多いそうです
デカブリストの乱について詳しい事はこちらを御覧ください
デカブリスト広場にある「青銅の騎士」像
ロシア皇帝ピョートル大帝の像です
騎馬像の建設はエカチェリーナ2世の命令により1770年に開始されました
おもにフランスの彫刻家Étienne Maurice Falconetによって作られ1782年に完成しました
アレクサンドル・プーシキンがこの像を題材にした叙情詩「青銅の騎士」を
1883年に発表し有名になったことからこの像自体も「青銅の騎士」と呼ばれるようになりました
台座の右側にはラテン語で「PETRO primo CATHARINA secunda MDCCLXXXII」
左側にはロシア語で「ПЕТРУ перьвому ЕКАТЕРИНА вторая лѣта 1782」
「ピョートル1世ヘ エカチェリーナ2世 1782年」と彫ってあります
デカブリスト広場から見た聖イサアク大聖堂
1818年から1858年まで40年の歳月をかけて建てられたロシア正教会の大聖堂です
並木道を抜けて大聖堂の近くまで行ってみました
フランス人建築家Auguste de Montferrandの設計で
外観はロシア・ビザンチン様式、ファサードは新古典主義様式で建てられました
イサアク広場から見た大聖堂 ドームの全高は101.5m 花崗岩の列柱は112本あるそうです
イサアク広場にあるニコライ1世の騎馬像
台座にある4人の女性像は皇帝の奥さんと3人の娘だそうです
1839年から1844年にかけて新古典主義様式で建てられたマリインスキー宮殿
現在は市議会の建物
1911年から1912年にかけて建てられたアストリアホテル(5つ星)
宮殿川岸通りを通って次の目的地へ向かいました 対岸に見えたロストラの燈台柱
ペトロパヴロフスク要塞内にあるピョートル大帝以後の歴代の皇帝が埋葬されている
ペトロパヴロフスク聖堂の高さ122.5mの黄金の尖塔もよく見えました
トロイツキー橋
建都100年にフランスからプレゼントされたものでエッフェルの設計だそうです
Храм Спаса на Крови(血の上の救世主教会) 公式名はハリストス復活大聖堂
名称は1881年3月13日の皇帝アレクサンドル2世暗殺によるもので暗殺場所に教会は建てられています
工事は1883年に着工され1907年に完成しました
内部は308点のモザイク画で飾られています
モザイク画は厳密な様式にのっとり聖書の場面を表現しているのだそうです
青い聖衣をつけているのがハリストス
下絵は25人を超える画家のグループが制作したそうです
天井のドームに描かれた若きハリストスの姿
若い頃の姿を描いた物は珍しいそうです
中央ドームにあるハリストスのモザイク画
教会のミニチュアモデル
皇帝が暗殺された時に血に染まった欄干と舗道の一部が保存されていました
イコノスタシス
扉がないので主祭壇のモザイク画も見えました
扉はこちらと
こちらのどちらにするかまだ決まってないそうです
ロシア革命後、教会内部も損害を被って1930年代に閉鎖されました
第二次世界大戦中には野菜倉庫として使われていました
戦後は近くのオペラ劇場の倉庫としても使われたそうです
1970年管理権がイサアク聖堂に譲渡され聖堂の収入は血の上の救世主教会の復旧へ集約され
1997年8月、血の上の救世主教会は60年ぶりに一般公開されたのだそうです
教会の横にあるクリポエードフ運河沿いには露天が並んでいます
こちらは南側(入ったのは北側)
外壁はレンガ、モザイク画、タイル、大理石で覆われています
東側
9つあるドームは金色やエナメルによる塗装が施されています
昼食は和食レストランGINNO TAKIでいただきました
内部はこんな感じです
海鮮サラダ(上) 巻物、にぎり盛り合わせ(下)
お好み焼き(上) デザートはいちごのパルフェ(下)
Государственный Эрмитаж①
昼食後に向かったのは宮殿広場
サンクトペテルブルクの中央広場でロシアの歴史的事件である血の日曜日事件(1905年)
十月革命(1917年)スターリン哀悼大集会(1953年)などもここで起こったそうです
真ん中にあるのは1834年に完成したアレクサンドルの円柱(高さ47.5m)
ナポレオン率いるフランス軍との戦争(1812年)の勝利を記念して
August Ricard de Montferrandの設計で建設されました
アレクサンドル1世をイメージした十字架を持つ天使の像が掲げられています
広場の南東側にはロシア帝国軍参謀本部ビルが1827年に建てられました
広場の北西側にはГосударственный Эрмитаж(エルミタージュ美術館)があります
エルミタージュ美術館は冬宮、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ
エルミタージュ劇場の5つの建物が一体となって構成されています
エルミタージュ美術館の中心である冬宮は1754年~1762年にかけて
イタリアの建築家Francesco Bartolomeo Rastrelliの設計によって建てられました
宮殿は緑と白の石材を用いてロココ建築で作られ長さ約200m、奥行き約160m、高さ22m
部屋数1057、扉の数1786、窓の数1945だそうです
建設当時の外壁は薄い黄色でしたが1850年代には薄いピンク、1913年には赤茶色
第二次世界大戦中は空襲の目標となるのを避けるため灰色になり
1947年、戦争からの開放感を象徴するために現在の薄い緑色になったそうです
1764年にエカチェリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったことがコレクションの始まりでした
美術館の起源はエカチェリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術展示室で
一般に公開はされていませんでしたが、1863年に市民も観覧が可能になったそうです
美術館の展示ホールは400室以上、総面積5万7475㎡、収蔵倉庫面積4万5000㎡だそうです
ネヴァ川側の正面玄関ではなく宮殿広場側のグループ入り口から入場しました
あまり人を見かけなかったのでゆっくり見学が出来ると思っていましたが
正面玄関側に回るとたくさんの人がいました
人の流れについて大使の階段(ヨルダン階段)を上ります
皇帝に謁見に来た外国の大使達が上った大理石の階段で、吹き抜けの高さは22mだそうです
ロシア・バロック様式で作られていて、花崗岩の円柱、鏡を多用した窓で飾られています
天井画は18世紀のイタリア画家Gasparo Dizianiの作品で、オリンポスを描いているそうです
1837年の大火で冬宮のインテリアは大半が消失したそうですが
ワシリー・スターソフによって18世紀当初の姿に復元されたそうです
最初に入ったのは部屋番号193 元帥の間
シャンデリアや壁や床の装飾も各部屋とも違っていて素晴らしかったです
部屋番号194 ピョートルの間(小玉座の間)
Jacopo Amigoniの描いた「ピョートルとミネルヴァ」の絵が飾られています
手前の椅子はピョートル大帝の姪、アンナ女帝の玉座
壁には銀糸で皇帝のモノグラムが刺繍されたビロード地が張り巡らされています
部屋番号195 紋章の間 かつてはロシアの戦士を表した彫像が置かれ
その手にはロシア帝国各県の紋章が描かれた旗が握られていたそうです
後世、彫像は紛失してしまい、現在は中央にあるブロンズのシャンデリアに
サンクトペテルブルクの紋章がついた盾が残っているだけだそうです
紋章の間の戦士の像
部屋番号197 1812年祖国戦争の画廊
祖国戦争の勝利を記念したホールで勝利に貢献した332人のロシア将軍の肖像画が並んでいます
戦死者の肖像画の場所が13カ所あり、肖像画が見つからなかった為に空けられたまま残されています
ロシア料理ビーフ・ストロガノフの名前に残るストロガノフ伯爵の若い時の肖像画です
ガイドさんの話では若い頃からビーフステーキが大好きだった伯爵ですが
年老いて歯が抜け落ち、大好きなお肉が食べられなくなり嘆いていたそうです
料理人が彼のために食べやすい大きさに切った牛肉を柔らかく煮込み
牛肉の風味を生かした料理を考案したものがビーフ・ストロガノフなのだそうです
部屋番号198 聖ゲオルギーの間(大玉座の間)
歴代皇帝が公式レセプションを行ったホール(総面積800㎡)
天井は金箔された模様で飾られています
二段の採光窓がある広間には大理石の円柱と二列のブロンズ製のシャンデリアが配置されています
玉座の上にはFrancesco del Nero作の聖ゲオルギーの龍退治のレリーフがあります
天井と同じ模様で飾られた床の寄木細工は16種類の木が使われているそうです
ここから小エルミタージュです 部屋番号259 西ギャラリー
中世西欧の装飾工芸美術が飾られています
イタリアの飾り棚
壁にはタペストリーが飾られていました
部屋番号204 パヴィリオンの間
ホールの装飾はルネッサンス様式、古典主義様式、ムーア様式のモチーフが用いられているそうです
イギリスの時計職人James Coxが制作した「孔雀の時計」
エカチェリーナ2世が愛人ポチョムキン公爵から贈られたものだそうです
残念ながら動く時計の姿は見ることが出来ませんでしたので
仕掛け時計の動く映像をYou Tubeで見つけてお借りしました
床には八角形のモザイク画が嵌めこまれています
同じモザイク画で作られたテーブルもありました
他にもモザイク画のテーブルがいくつか展示されていました
部屋の隅にある小部屋も素晴らしかったです
パヴィリオンの間の窓の外には空中庭園もあります
つづく
Государственный Эрмитаж②
旧エルミタージュの建物にある評議会の階段の踊り場
壁は白とピンクの人工大理石のパネルと壁柱で飾られ、踊り場の柱は白い大理石だそうです
1850年に作られた孔雀石の花瓶が飾られています
部屋番号 254 レンブラントの間
Rembrandt Harmensz. van Rijn(1606生1699没)は17世紀オランダを代表する画家です
「The Return of the Prodigal Son(放蕩息子の帰還)」
1661年~1669年作 262×206cm
「The Angel Stopping Abraham from Sacrificing Isaac to God(イサクの犠牲)」
1635年作 193×133cm
「The Holy Family(天使のいる聖家族)」 1645年作 117×91cm
「Portrait of an old man in red」 1654年作 108×86cm
「Portrait of Baertje Martens」 1640年作 76×56cm
「Young woman trying earrings」 1654年作 39.5×32.5cm
「The descent from the cross」 1634年作 158×117cm
「Flora(春の女神フローラに扮したサスキア)」 1634年作 125×101cm
サスキアはレンブラントの奥さんで彼女をモデルとして描いた作品がたくさん残されています
「Danaë(ダナエ)」 1636年作 185×203cm
この作品は1985年6月15日にリトアニア人の青年によって傷つけられました
硫酸を浴びせかけた上に刃物で2回切りつけられたそうです
被害が大きかったのはダナエの顔、髪、右腕、両脚だったそうです
1985年~1997年にかけて修復が行われましたが完全に修復することは叶わなかったそうです
部屋番号 239 スペインの小部屋
ギリシアのクレタ島出身のEl Greco(1541年生1614年没)や
15世紀から17世紀初めのスペイン画家の作品が展示されていました
「St Bernard」 エル・グレコ 1579年作 116×79.5cm
「The Virgin and the Child with a Cross-shaped Distaff」
Luis de Morales(ルイス・デ・モラレス 1501年?生1586年没)スペインの宗教画家
1570年作 71.5×52cm
「St Andrew」 Miguel Barroso(1530年生1590年没)
1587年~1590年作 78×55.5cm
エル・グレコ 「Sts Peter and Paul(使徒ペテロとパウロ)」
1587年~1592年作 121.5×105cm
(右) 「St Sebastian and St Fabian」作者不明 1475年から1500年の間の作品141.4×89.5cm
途中で切れてますが・・・(左)Entombment 作者不明 1490年頃作 94×182cm
部屋番号 239 スペイン天窓の間
17世紀と18世紀のスペイン絵画が展示されています
アーチ型の天井と小壁は金色のモールディングで飾られています
Francisco de Zurbarán(フランシスコ・スルバラン1598年生1664年没)バロック期のスペインの画家
「St Lawrence」 1636年作 292×225cm
「Childhood of the Virgin(聖母マリアの幼年時代)」
1658年~1660年作 73.5×53.5cm
Bartolomé Esteban Perez Murillo(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ1617年生1682年没)
バロック期のスペインの画家
「Boy with a Dog(少年と犬)」 1655年~1660年作 70×60cm
「Vision of St Antony of Padua」 1660年~1680年作 250×167cm
「Walpole Immaculate Conception」 1680年頃作 195×145cm
「 Rest on the Flight into Egypt」 1665年頃作 136.5×179.5cm
「Portrait of the Actress Antonia Zarate(アントニア・サラテの肖像)」
Francisco José de Goya y Lucientes(フランシスコ・ゴヤ) 1746年生1824年没
スペインの宮廷画家
「Luncheon(朝食)」 1617年頃作 108.5×102cm
Diego Rodríguez de Silva y Velázquez(ディエゴ・ベラスケス)1599年生1660年没
スペイン絵画の黄金時代だった17世紀を代表する画家
「Portrait of Philip IV」 1640年作 203×122cm
この作品はベラスケスの工房で描かれたもの
部屋番号 207~212 13世紀から15世紀初めのイタリア美術の間
天井の装飾
「Magnanimity of Scipio Africanus」1512年~1516年作 62×166cm
Bernardino Fungai(1460年生1516年没)
「Madonna and Child with four angels 」 1425年頃作 81×51cm
Fra' Angelico(フラ・アンジェリコ)1390年/1395年頃生1455年没
初期ルネサンス期のイタリア人画家
続きます
Государственный Эрмитаж③
部屋番号 214 The Leonardo da Vinchi Room(レオナルド・ダ・ヴィンチの間)
円柱は斑岩から作られたもの 扉絵はべっ甲に象嵌細工が施されています
天井はこんな感じになっていました
Leonardo da Vinci(1452年生1519年没) イタリア・ルネサンス期を代表する芸術家
「Madonna and Child (The Benois Madonna) 花と聖母子(ベノワの聖母)」
1478年頃作 49.5×31.8cm
「Madonna and Child (The Litta Madonna)リッタの聖母」
1490~1491年作 42×33cm
The Foyer of the Hermitage Theatre(エルミタージュ劇場の休憩室)
運河の上にアーチ状にある部屋でロココ様式で装飾されています
天井に描かれている装飾画
神話をモチーフとしたものが描かれています
部屋の窓から見ると運河の上にあるというのが良くわかりました
外壁にある像
部屋番号 227 The Raphael Loggias(ラファエロの回廊)
旧エルミタージュと新エルミタージュをつなぐ長い通路です
ヴァチカン宮殿にあるラファエロの回廊のコピーです
部屋番号 229 The Majolica Room(通称ラファエロの間)
500点のルネサンス期のイタリア製マジョリカ焼きの作品が保管されています
「Madonna and Child(The Conestabile Madonna) コネスタビレの聖母」
Raffaello Santi(ラファエロ・サンティ 1483年生1520年没)
1502~1504年作 17.5×18cm
Madonna with Beardless St.Joseph(聖家族)
1506年作 72.5×56.5cm
「A Crouching Boy(うずくまる少年)」 1530年代
Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni(ミケランジェロ 1475年生1564年没)
部屋番号 237 The Small Italian Skylight Room(小イタリア天窓の間)
天窓付近の装飾
ラピスラズリ製のテーブル
「Lute Player(リュートを弾く人)」 女性のように見えますが少年です
Michelangelo Merisi da Caravaggio(カラヴァッジオ 1571年生1610年没)
1595年頃作 94×119cm
部屋番号 243 The Knight's Room(騎士の間) 17世紀の武器や防具が飾られています
1670年~1690年頃のドイツ ニュルンベルクの人と馬の鎧
天井はネオ・ギリシャ風の絵画が描かれています
部屋番号 245 Room of Flemish Art(フランドル地方の名作の間 別名スナイデルスの間)
Frans Snyders(フランス・スナイデルス1579年生1657年没)
フランドルの動物および静物画家スナイデルスの大作が壁一面に飾られています
部屋番号 246 The Van Duck Room(ヴァン・ダイクの部屋)
バロック期フランドルの画家Anthony van Dyck(1599年生1641年没)
自画像 1622年作 116.5×93.5cm
ヴァン・ダイクの部屋の天井
新エルミタージュ宮殿の正面(テレベニン)階段
19世紀のヨーロッパの彫刻や18世紀、19世紀のロシアの石工の作品が飾られています
部屋番号 247 The Rubens Room(ルーベンスの間)
Peter Paul Rubens(ルーベンス 1577年生1640年没)
「Roman Charity(ローマの慈愛 シモンとペロ)」 1612年作 140.5×180.3cm
「Bacchusの饗宴(バッカス)」 1638年頃作 191×161.3cm
「Apotheosis of James I」 1630年頃作 89.7×55.3cm
「Landscape with a Rainbow」 1630年代 86×130cm
「Perseus and Andromeda(ペルセウスとアンドロメダ)」 1622年頃作 99.5×139cm
部屋番号 272~274 真ん中にあるお皿は16世紀フランス ベルナール・パリッシ工房
15世紀~17世紀の食器類
部屋番号 275
Simon Vouet(1590年生1649年没)
「Allegorical Portrait of Anna of Austria as Minerva」 1643年作 202×172cm
部屋番号 282 The Alexander Room(アレクサンドルの間)
ゴシック様式とクラシックスタイルのバリエーションの組み合わせで
作られた部屋で皇帝アレクサンドル1世に捧げられています
壁の装飾
かなり端折りましたが、やっと美術館の2F(Firest Floor)を見終わりました
次回からは3F(Second Floor)です
Государственный Эрмитаж④
3F(Second Floor)は宮殿時代は使用人の為の部屋として使われていました
2Fに比べると天井も低く、装飾も全然なくてシンプルな部屋でした
部屋番号314 18世紀~19世紀初めのフランス絵画の間
新古典主義の作品が飾られています
「Portrait of Josephine」(ナポレオンの皇后ジョセフィーヌの肖像画)
François Gérard(フランソワ・ジェラール 1770年生1837年没) 1801年作 178×174cm
「Napoleon on the Bridge at Arcole」 1769年~1797年作 134×103cm
Antoine-Jean Gros(アントワーヌ=ジャン・グロ 1771年生1835年没)
部屋番号 318 印象派の間
「Smoker」 1890年~1892年の間の作品 92.5×73.5cm
Paul Cézanne(ポール・セザンヌ 1839年生1906年没) フランスの印象派の画家
「Lady in Blue」 1900年作 90×73.5cm
「Blue Lanscape」 1904年から1906年の間の作品 100.5×81cm
「Mount Sainte-Victoire」 1896年作 78×99cm
「Boulevard Montmartre in Paris」 1897年作 74×92.8cm
Jacob Camille Pissarro(カミーユ・ピサロ 1830年生1903年没) フランスの印象派の画家
「Place du Theatre-Francais. Spring」 1898年作 65.5×81.5cm
部屋番号 319 モネの間
「Woman in the Garden. Sainte-Adresse」 1867年作 82×101cm
Claude Monet(クロード・モネ 1840年生1926年没) 印象派を代表するフランスの画家
「Poppy Field」 1890年作 60.5×92cm
「Haystack at Giverny」 1886年作 60.5×81.5cm
「Steep Cliffs near Dieppe」 1897年作 65×100.5cm
「River Banks at Saint-Mammes」 1884年作 50×65cm
Alfred Sisley(アルフレッド・シスレー 1839年生1899年没) フランス生まれのイギリス人画家
「Villeneuve-la-Garenne (Village on the Seine)」 1872年作 59×80.5cm
「Cupid and Psyche」 1905年作 大理石製 高さ26cm
François-Auguste-René Rodin(オーギュスト・ロダン 1840年生1917年没) フランスの彫刻家
部屋番号 320 ルノワールの間
「Boy with a Whip」 1885年作 105×75cm
Pierre-Auguste Renoir(ピエール=オーギュスト・ルノワール 1841年生1919年没) フランスの印象派の画家
女の子の格好をした男の子の絵です
「Portrait of the Actress Jeanne Samary」 1878年作 174×105cm
色々な物が写り込んでいて見づらいですが・・・
「Girl with a Fan」 1881年作 65×50cm
「Peasant Girl Grazing a Cow at the a Forest」 1865年から1870年の間の作品 47.5×35cm
Jean-Baptiste Camille Corot(ジャン=バティスト・カミーユ・コロー 1796年生1875年没)
部屋番号 317 ゴッホの間
「Arena at Arles」 1888年作 73×92cm
Vincent van Gogh(フィンセント・ファン・ゴッホ 1853年生1890年没)オランダ出身の後期印象派画家
「Memory of the Garden at Etten (Ladies of Arles)」 1888年作 73×92cm
「Lilac Bush」 1889年作 73×92cm
「Cottages」 1890年作 59×72cm
「Port Manech」 1896年作 60.5×73.5cm
Henry Moret(1856年生1913年没) フランスの画家
「Harbour at Marseilles」 1907年作 46×55cm
Paul Victor Jules Signac(ポール・シニャック 1863年生1935年没)
「Luxembourg Gardens. Monument to Chopin」 1909年作 38×47cm
Henri Julien Félix Rousseau(アンリ・ルソー 1844年生1910年没)フランスの素朴派の画家
部屋番号 316 ゴーギャンの間
Eugène Henri Paul Gauguin(ポール・ゴーギャン 1848年生1903年没)フランスのポスト印象派の画家
左 「Тahitian Pastorals」 1892年作 87.5×113.7cm
右 「Fatata Te Moua (At the Foot of a Mountain)」 1892年作 68×92cm
「Woman Holding a Fruit; Where Are You Going? (Eu haere ia oe)」
1893年作 92.5×73.5cm
踊り場からアレクサンドルの間が見えました
窓から宮殿広場が見えました
エルミタージュ美術館の続きあと1回あります
Государственный Эрмитаж⑤
3F(Second Floor)の続きです
部屋番号 345~347 マティスの間
Henri Matisse(アンリ・マティス 1869年生1954年没) フランスの野獣派(フォーヴィスム)の画家
「Vase, Bottle and Fruit」 1906年作 73×92cm
「View of Collioure」 1905年作 59.5×73cm
「Music」 1910年作 260×389cm
「Dance」 1909年~1910年作 260×391cm
「Seville Still Life」 1910/1911年作 90×117cm
「Red Room (Harmony in Red)」 1908年作 180.5×221cm
「Still Life with The Dance」 1909年作 89.5×117.5cm
部屋番号 348~349 ピカソの間
Pablo Picasso(パブロ・ピカソ 1881年生1973年没) スペインのキュビズムの画家
左 「Friendship」 1908年作 151.3×101.8cm
中 「Seated Woman」 1908年作 150×99cm
右 「Dryad」 1908年作 185×108cm
「Two Sisters (The Meeting)」 1902年作 152×100cm
「Absinthe Drinker」 1901年作 73×54cm
「Woman with a Fan」 1907年作 152×101cm
左 「Dance of the Veils」 1907年作 150×100cm
右 「Portrait of Soler」 1903年作 100×70cm
「Musical Instruments」 1912年作 98×80cm
部屋番号 333 カンディンスキーの間
Василий Васильевич Кандинский(ワシリー・カンディンスキー 1866年生1944年没)
ロシアの画家 抽象絵画の創始者だと言われています
「Landscape」 1913年作 88×100cm
「Sketch for Composition V」 1911年作 95×139cm
「Composition VI」 1913年作 195×300cm
「Winter Landscape」 1909年作 70×97cm
部屋番号 357(?)Room of Chinese Art of the 17-18th Centuries
上の部屋の奥に日本の浮世絵が飾ってありました
源氏物語 空蝉の巻
源氏物語 野分の巻
役者絵
武者絵
部屋番号 370 Room of Ancient and Mediaeval Indian Sculpture
3時間半しか見学する時間がなかったのでバタバタと慌ただしい鑑賞でした
再びネフスキー大通りを通ってホテルへ戻りました シンガー社の建物
朝早い時間と夕方では光の差し具合で同じ建物も違って見えました
人の通りもとても多くなっていました 運河の奥に血の上の救世主教会が見えました
サンクトペテルブルクにある最高級ホテル グランドホテルヨーロッパ(1875年創業)
エルミタージュ美術館のバーチャルツアーが楽しめるホームページはこちらです
エルミタージュ美術館
Мариинский театр
本場ロシアでバレエを鑑賞したいと思い、現地のガイドさんにチケットを取ってもらい
サンクトペテルブルクを代表する劇場Мариинский(マリインスキー)へ出かけました
Мариинский театр(マリインスキー劇場)は1783年エカチェリーナ2世の勅令により
オペラとバレエの専用劇場として開設された帝室劇場でした
クラッシックバレエの名作「眠れる森の美女」や「くるみ割り人形」の初演はこの劇場でした
現在のネオ・ビザンチン様式の建物は1859年に竣工しました
1860年、皇帝アレクサンドル2世の皇后マリア・アレクサンドロヴナの
名に因み「マリアの」という意味の「マリインスキー帝室劇場」と名付けられました
開演まで時間があったので劇場内を見学しました
劇場に関するものやバレエやオペラの衣装が飾られていました
これは確かバレエ「シンデレラ」の衣装です
階段の奥にあるカフェで開演前に軽い食事をしている人もたくさんいました
開演の15分前に開場入りが出来ました 私達の座席は平土間の12番目の左側の通路脇でした
オフシーズンなので観光客や親子連れが多くて皆ラフな格好をしてました
ツァールスカヤ・ロージャ(皇帝のボックス席という意味)のロイヤルボックス
天井はこんな感じでした
座席から見た左側
座席から見た右側
鑑賞したのは「海賊」3幕5場の作品です
夏休みなのでプリンシパル(バレエ団のトップの階級)ではなくファーストやセカンドダンサーでの公演でした
公演中は撮影禁止ですが、幕間のカーテンコールの撮影はOKでした
幕間のオーケストラボックス
第二幕の舞台はこんな感じでした
Ali役はAndrei Batalov(左) Gulnare役Anastasia Kolegova(真ん中)
Conrad役Ilya Kuznetsov(右)
二幕のカーテンコール
主役の二人
三幕の最後の方では舞台に噴水が出てました
指揮者と出演者全員の挨拶
最後のカーテンコール
ロビーにあった観客席の模型
終わったのは22時頃でしたが、まだ外は明るかったです
劇場はホテルから少し遠かったので、往復ホテルの送迎サービスをお願いしました
後ろに写っている3つの塔はスモーリヌイ聖堂
イサク広場
バスと車では目線が違うので同じ建物が違うものに見えました
ネフスキー大通りの日陰側№21メルテンス毛皮店(1910年~1912年の間に建造)
№33 市議会
№35 ガスチーニィ・ドゥヴォール
蜂起広場
散水車が道路の掃除を始めてました
夕食はホテルに戻ってルームサービスでいただきました
前菜はスモークチキンのサラダ
メインはサーモンのグリル テリヤキソース
デザートはフルーツサラダ アイスクリーム添え
マリインスキー劇場
Екатерининский дворец①
サンクトペテルブルクには「お弁当は忘れても傘は忘れるな」という言葉があるそうです
この日の朝はその言葉通り、にわか雨が降っていました
サンクトペテルブルクの3日目は1日郊外へお出かけしました
Московские Триумфальные ворота(モスクワの凱旋門)
1834年から1838年にかけて建てられた門でクリミア戦争での勝利を記念して建てられました
モスクワ広場にあるレーニン像
ロシアではタクシーを止める時のポーズと同じなので「タクシーを止めるレーニン」と呼ばれています
かなり写りが悪いですが電車が通過する際に撮った踏切の写真です
線路に車が侵入しないように鉄のブロック板が自動で上がり下りするようになっていました
目的地ツァールスコエ・セローには1時間弱で着きました(写真はプーシキンの別荘)
この街は1937年アレクサンドル・プーシキンの死後100年を記念してプーシキン市となりました
現在はサンクトペテルブルク市プーシキン地区です
近くの公園の中にはプーシキンの像もありました
1811年アレクサンドル1世に設立されたTsarskoye Selo Lyceum(左)
名家の若者を教育する為に作られた学校でプーシキンもここを卒業したそうです
この日の最初の目的地Екатерининский дворец(エカテリーナ宮殿)の建物が見えてきました
宮殿の柵の装飾も美しかったです
宮殿の門
宮殿の名はピョートル大帝の后でもあった第2代皇帝エカテリーナ1世(在位1725年~1727年)に由来します
宮殿の建設の始まりは1717年、エカテリーナ1世が夏の避暑用の離宮として
ドイツの建築家Johann-Friedrich Braunsteinに依頼した時の事だそうです
その後第4代皇帝アンナ(在位1730年~1740年)がロシア人建築家に命じ増築させたそうです
第6代皇帝となったエリザヴェータ(在位1741年~1762年)は母エカテリーナ1世の建築が
時代遅れで不便だということで冬宮殿(エルミタージュ)の建設に関わっていた
イタリア人建築家Francesco Bartolomeo Rastrelliに改築を命じたそうです
建設は1752年に始まり1756年に全長325mの現在規模の宮殿が完成したそうです
一般に夏の間を過ごしたことから「夏の宮殿」とも呼ばれています
正面階段
18世紀と19世紀の日本の伊万里焼きと中国の焼き物が飾られています
日本とは国交がなかったのですが、中国経由で来たものだそうです
天井の絵「パリスの審判」
「Jupiter and Callisto」
バロメーター付き時計
「目覚める天使」像
大広間(舞踏の間)
面積846㎡ 幅17m 長さ47m以上もある広間で公式のレセプションやお祝いなどに使用されました
大黒屋光太夫がエカチェリーナ2世に謁見して帰国の許可を得たのもこの部屋だそうです
広間は宮殿の全体の幅を占めていて両側の窓から自然光が差し込んでいます
夜は壁につけられた696のキャンドルに灯りがともされたそうです
天井の絵 勝利を象徴
ロシアを象徴
平和を象徴
壁の装飾は木彫りに金メッキをしたもの、床は寄木細工です
床を傷つけないように宮殿内では靴カバーをつけて歩くので床がピカピカでした
The Cavaliers’ Dining-Room
天井画
再び正面階段を通って進みます もう一枚の天井画「Triumph of Venus」
「眠れる天使」の像
The White State Dining-Room
部屋の壁にはドイツ人画家Johann Friedrich Groothの静物画が飾られています
オランダのデルフト焼きでつくられたペチカ
天井画「The Triumph of Apollo」
部屋に飾られていたマイセンの食器
2010年はツアールスコエ・セロー300周年、マイセン磁器300周年と言うことで
マイセンから贈られた300個のマイセン焼きが宮殿内に展示されているそうです
The Crimson Pilaster Room
ダマスク織の壁に金属箔で裏打ちした赤いガラスのピラスター(付け柱)がつけられています
ドイツのマイスターAbraham Roentgenが作った象嵌細工の家具(1765年頃の作品)
こちらの家具も素敵ですが作者はわかりません
18世紀の中国製の真珠母貝と象牙のチェスセット
天井画「The Clemency of Alexander the Great」
ちょっと不気味なキューピッド
この部屋のペチカは
18世紀の衣装を着た人物が描かれたタイルで飾られていました
今月のカレンダー
ミカチさんのカレンダーも今年最後のご紹介になりました
岐阜県白川郷とイタリア湖水地方コモ湖と黄色いワーゲンバスです
おわび
先週半ば頃に風邪を引いてしまい、皆様のブログへのご訪問が滞っており申し訳ありませんm(__)m
コメントへのお返事も遅れておりますが必ずお返事させて頂きますのでもう少しお待ちください
Екатерининский дворец②
続いての部屋はGreen Pilaster Room
緑のピラスター(付け柱)で飾られています
この部屋の天井画は「A Resting Military Commander Harkens to the Call of the Muses」
18世紀のイタリアの芸術家 Luvici Torelliの作品だそうです
部屋の真ん中にはフランス語でクラヴサンという楽器が飾ってありました
英語でハープシコード、ドイツ語、イタリア語でチェンバロと言われている楽器です
エカチェリーナ2世がお嫁入りの時に持ってきた小物入れ
恋人からもらったラブレターを保存していたそうです
次の部屋はThe Portrait Hall
ピョートル1世の娘第6代皇帝エリザヴェータ・ペトロヴナ(Елизавета Петровна)の衣装
上の衣装を着た肖像画
ピョートル大帝の后で第2代皇帝エカテリーナ1世の肖像画
次の部屋は世界8番目の不思議と言われていたThe Amber Room
この部屋だけは撮影禁止の為カタログから写真をお借りしました
琥珀の間の基礎になった琥珀製の装飾板は1717年に
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世からピョートル大帝に贈られたそうです
ピョートル大帝の死後、エリザヴェータが冬宮の謁見の間の装飾にその琥珀板を使ったそうです
その後、エカチェリーナ2世の時代(1770年)にエカテリーナ宮殿に移動したのだそうです
エカチェリーナ2世は琥珀の間をことのほか愛し、部外者の立ち入りを禁止していたそうです
1941年ナチスドイツにより宮殿内にあった多くの装飾品とともに琥珀の間の装飾も略奪されてしまったそうです
琥珀の間は暫くの間カリーニングラードで展示されていましたが
イギリス空軍の空爆によりすべて消滅したと言われています
1979年より琥珀の間の修復が始まり、2003年に24年の歳月をかけた修復が完了したそうです
次の部屋はThe Picture Hall
130枚の絵画で壁面が覆われています
部屋にあるペチカはこちら側が古いもので反対側にあるものはこれを真似して作ったそうです
次の部屋はThe Small White Dining-Room
Nikolai Vasilyev作製の机が展示されていました
天井画
次の部屋はThe Chinese Drawing-Room of Alexander I
部屋の名前にもなっている第10代皇帝アレクサンドル1世の肖像画
第8代皇帝エカチェリーナ2世の肖像画
18世紀の時計が飾られていました ちょうど10時だったので可愛らしいベルが鳴っていました
次の部屋はThe Pantry
飾られている家具は18世紀のものだそうです
次の部屋はThe Green Dining-Room
エカチェリーナ2世が自分の好みで息子夫婦の為に作らせた部屋だそうです
古代ローマ装飾のモチーフで表現されているそうです
次はThe Waiters’ Room
Bartolomé Esteban Perez Murillo(ムリーリョ)の「Mountain Landscape」が飾られています
Marie-Anne Collotの「Head of a Young Girl」が飾られています
The Church (Stasov) Staircase
18世紀のフランス画家の絵が飾られています
赤いカーテン越しの明かりで部屋全体が赤く染まっていました
1階にある部屋にはマイセンの磁器が展示されていました
廊下に飾られていた第二次大戦後のエカテリーナ宮殿の写真
宮殿内
正面階段(修復後は前回の記事を御覧ください)
宮殿内の見学を終え、お庭側に出てきました
お庭はこんな感じです
お庭から見た宮殿
最後に宮殿内にある琥珀で加工した作品が展示してあるお店を見ました
エカテリーナ宮殿のバーチャルツアーはこちらでご覧いただけます
Петерго́ф①
エカテリーナ宮殿を出て向かったのはПетерго́ф(ペテルゴフ)
ドイツ語で「ピョートル大帝の邸宅」という意味の町です
1705年ピョートル大帝により町が開かれました
写真はСобор Петра и Павла(ピーターとポール大聖堂) 1904年に建てられました
お昼はレストランПетерго́ф(ペテルゴフ)でいただきました
この後見学するピョートル大帝の夏の宮殿の敷地内にあります
前菜はポテトサラダ
メインはシチューの壺焼き デザートはアイスクリーム
食後、宮殿の庭園を見学に行きました
庭園は宮殿を挟んで上の庭園と下の庭園に分かれています
総面積1000ヘクタールを超える敷地には約30の建物とパビリオンが造られているそうです
入り口を入るとすぐに下の庭園が見えてきます
宮殿側から見た運河 約600mありフィンランド湾まで続いています
ピョートル大帝の時代には船がこの運河を通って直接宮殿に横付けしていたそうです
グランドカスケード(大滝)の左側の階段を降りて下へ向かいました
花壇の真ん中にあるのはイタリアの噴水
大滝の周りには金箔を施されたギリシア神話の人物のブロンズ像が配置されています
一番右の像は彫刻家J.D.ラシェット作ガラテア(1801年作)
マーキュリー(手前右側の像)は紀元前2世紀の古代ギリシャの作品の複製
グランドカスケード全体で37体の銅像、64の噴水、142の水の吹き出し口があるそうです
サムソンの噴水
M.I.ゴズロフスキー作「ライオンの口を引き裂くサムソン」1801年作
サムソンの噴水は年6月27日聖人サムソンの日にピョートル1世率いるロシア軍が
カール12世率いるスウェーデン軍を撃破したポルタワの戦いの勝利25周年に制作されたそうです
ライオンの口から吹き上げる水は20mの高さまで達するそうです
お気に入りの噴水
4羽の鴨を1匹のパグ犬が追いかけています
運河沿いの並木道を通って進みます
噴水の並木道
運河にかかる橋を渡ります ここから宮殿とグランドカスケードがよく見えました
刈り込まれた並木道を進みます
並木道の先に噴水が見えてきました
アダムの噴水 庭は左右対象になっていて反対側へ行けばイブの泉があるそうです
とても暑い日だったので木立の中を歩くと気持ちよかったです
子供達の叫び声が聞こえてきた方へ行くといたずらの噴水がありました
ピョートル大帝はいたずら好きで招待客に水をかけては「濡れた人は幸せになれる」と言っていたそうです
ということで、子供達と一緒にいたずらの噴水に入ってみました
いたずらの噴水で遊ぶ子供達の様子をどうぞ(34秒) *注意*音が出ます
モン・プレジール宮殿と噴水
モン・プレジール宮殿はフィンランド湾に面した場所にあります
船着場 サンクトペテルブルクからペテルゴフまで水中翼船で訪れることもできます
海のテラス
海のテラスから見たサンクトペテルブルク
もうひとつあるいたずらの噴水
森の中には水路もあります この水が噴水に利用されているそうです
木々の向こう側にまた噴水が見えてきました
太陽の噴水
ピョートル大帝の像
Вольеры(鳥小屋)
いたずらの噴水
チューリップから出る水を避けようと真ん中にある木に近づくと木からも水が出てきます
水を避けてベンチに行くとベンチからも勢い良く水が出てきて濡れずに移動出来ないようになっています
お知らせ
火曜日から木曜日までちょっと出かけてきます 留守中皆様のブログへのご訪問ができませんことお許しください
嵐山の紅葉
ロシア旅行記もあと少しで終わりですが、少しお休みして20日~22日に出かけた京都のお話を
まずは21日のお話から・・・
この日は京都在住「きゅくぐまのいちにち」のあつこさん、「黒いタイツと白いたび。」のCheeさん
神戸在住の「猫と仕事とハマリもん」のyoshibuuさんと初めてお会いすることに
写真はホテルの部屋からの景色です
10時にホテルのロビーで待ち合わせをしてJRで嵐山へ向かいました
嵯峨嵐山駅に着いて、トロッコ列車の切符を購入に行ったら長蛇の列
指定席は全くなく、立ち乗り席を購入、まずはお昼ご飯を食べに行きました
「嵯峨とうふ 稲」というお店で京湯葉あんかけ御膳と単品で手桶くみあげ湯葉をいただきました
手前左から右に湯葉あんかけ丼、お漬物、白味噌汁、わらび餅
真ん中の列、ごま豆腐、天ぷら(ごま豆腐、もみじ麩、青唐)
一番上の列、豆乳はちみつジュース、生麩の田楽(よもぎ麩、ごま麸)、手桶くみあげ湯葉
乗車時間までまだ時間があるので、嵐山といえばの渡月橋へ
嵐山公園から見た保津川
ぶらぶらと嵯峨野へお散歩 野々宮神社まで行って駅に戻りました
予約していたトロッコ列車に乗りました
保津川沿いに亀岡駅まで7.5km、25分の列車の旅です
沿線の紅葉も綺麗でした
途中何度かこの後乗る保津川下りの船に出会いました
亀岡駅からタクシーに乗り、保津川下り乗船場まで移動しました
新保津大橋の近くから保津川下りの始まりです 約16kmを2時間かけて下ります
最初3kmくらいは緩やかな流れでしたが30分経った頃から急流になってきました
写真は大高瀬
白い看板がついているのはかえる岩
トロッコ列車から見るよりも川から見る紅葉の方が綺麗に見えました
獅子ケ口 かなり狭い所を進むのでスピードもあって面白かったです
振り返って見るとまた違う景色が見えます
鹿の水飲み場 少し分かりづらいですが赤く囲んだ所に鹿がいます
孫六岩 乗船場から約8km やっと半分です
保津峡付近?
高尾付近
だんだん日が陰ってきて寒くなってきました
トロッコ列車とすれ違いました
もっと明るいうちに見たらもっと綺麗だったかも・・・
ライオン岩
最後の急流
最後の急流を過ぎた後、屋根付きの船が近づいてきます
みたらし団子、甘酒、おでん、焼き栗などを販売する船です
17時前に嵐山に到着しました
寒かったのと小腹が空いたので「嵯峨野湯」というカフェでパンケーキとカフェオレで休憩しました
あつこさんとCheeさんは嵐山からの方がお家が近いので
ここで皆さんとお別れして別行動をしていた母と妹と合流しました
天龍寺塔頭 宝厳院でライトアップしているので行ってみました
下からの光に照らされた紅葉が美しかったです
いただきもの
あつこさんから太秦にあるパティスリーヒロヤの「みそフィナンシェと」可愛い猫ちゃんの置物
Cheeさんからはディズニーランドのお土産
yoshibuuさんからは神戸モンロワールのリーフチョコ
皆さんありがとうございましたm(_ _)m
またお会いしましょうね~
大原の紅葉と東山のライトアップ
京都旅行の初日(11月20日)は大原へ出かけました
大原までは京都駅からバスで1時間でした
大原は京都市の北に位置しているので紅葉の見頃は少し過ぎたかな?という感じでした
12時を過ぎていたのでまずお昼を食べに旅館「芹生」に行きました
頂いたのは「京ゆば懐石」 左から八寸 生湯葉 ごま豆腐
湯葉饅頭(左上) 松茸の土瓶蒸し(右上) キノコご飯と湯葉の赤だし(左下) 栗のムース(右下)
食後、三千院へ 円融房へ向かう廊下から見た聚碧園(池泉観賞式庭園)
客殿から見た聚碧園
宸殿から見た有清園(池泉回遊式庭園)
わらべ地蔵
国宝 阿弥陀三尊像がある往生極楽院
金色不動堂へ向かう道にあった色づいた木々
観音堂近くの紅葉
市内より少し寒いからか落ち葉のほうが多かったです
御殿門近くの紅葉
三千院から実光院、勝林院、宝泉院へと続く道
手前の瓦屋根が実光院、突き当りが勝林院
宝泉院へと続く道
宝泉院の客殿にある額縁庭園 盤垣園 春と秋、ライトアップされているそうです
樹齢700年の五葉の松
同じ道を戻ります
日に照らされたもみじが綺麗でした
大原には漬物屋さんが多くあり実演販売もしていました
三千院の朱雀門
来迎院へ向かう道
本堂 室町後期再建
16時半くらいですが、山の中なので暗くなってきて、灯りが点き始めました
バスに乗って国際会館へ向かい、そこから地下鉄で四条河原町へ
少し早かったですが18時頃 祇園にある「総本家にしんそば松葉」でいただきました
上からにしんそば、あなごそば、鴨南ばんそば
八坂神社を通って東山へ
高台寺のライトアップを見に行きました
土蔵付近から見た紅葉
観月台と偃月池
方丈庭園のライトアップ
龍が様々な色に照らされて幻想的でした
臥龍池に映る紅葉
開山堂と臥龍廊
竹林
高台寺塔頭 圓徳院の南庭
北庭
伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので桃山時代の代表的庭園のひとつ
おまけ
京都タワーのライトアップ
京都駅のクリスマスツリー
もみじ、もみじ、もみじ
京都滞在最終日(22日)は紅葉の名所を巡ることに・・・
まず、最初は洛南にある東福寺へ(写真は龍眠庵のもみじ)
臥雲橋から見た通天橋
紅葉の名所として知られているだけにまだ9時前だというのにたくさんの人が訪れていました
通天橋から見た臥雲橋と渓谷・洗玉澗
開山堂 楼閣は伝衣閣
開山堂のお庭
愛染堂の前のもみじ
渓谷・洗玉澗の中を歩いてみました
赤、黄、オレンジ、緑のもみじが混ざり合って美しかったです
三門
本堂の天井の蒼龍図(堂本印象作)
方丈 南庭
通天台から見た通天橋
北庭 小市松
お昼頃、平安神宮近くにあるスフレ専門店「六盛茶庭」でお茶しました
注文してから焼き上げるので出てくるまで20分くらいかかります
東山にある金戒光明寺塔頭 栄摂院
本堂のお庭
本堂裏には「黒谷明星水」と言う井戸があります
真如堂(真正極楽寺)
三重塔
最後に訪れたのは禅林寺(永観堂)
古くより「秋はもみじの永観堂」と言われる紅葉の名所です
釈迦堂のお庭
臥龍廊
阿弥陀堂から庭園へ降りる階段
放生池 弁天島にかかる錦雲橋
もみじ越しに見た多宝塔
もみじの絨毯
銀杏の絨毯
遅めの昼食は15時半頃「南禅寺 順正」でいただきました
お手前豆腐コースです 自分で豆乳から豆腐を作るので出来立てを味わうことができます
田楽、ごま豆腐、炊合せ、野菜の天麩羅、ご飯、お漬物付きです
たくさんのもみじをご紹介しましたが、みなさんは何色のもみじがお好きですか?
次回からは今年中に終了できるようにロシア旅行記に戻ります
記事の更新を優先したので皆様のブログへのご訪問とコメントへのお返事が遅れますことお許し下さい